戦国新報
 
 
平成7年 後期
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今川義元はなぜ桶狭間の合戦で破れたか?
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 義元が地理的に不案内だったとは考えられない。二万五千人の今川勢の隊列は二十キロ以上にもなるのではないだろうか。今の峰浜から能代までの距離である。この大軍隊を目の前に義元はおそらく安心しきっていたのだろう。
 しかし信長軍と義元軍には大きな違いがあった。今川勢はそのほとんどが、農民である。そのため彼らは今、戦いに勝つことよりも、農作業の方が心配で戦う気力に欠けていたのである。その半面、信長軍は銭で雇われた軍であって、農作業のことは心配せずにただ戦いにだけ神経を集中すればよかった。いわゆる兵濃分離である。
 農民の多い二万五千人の兵隊と四千人の強者軍団では数に大差はあるものの、いざ戦うという気力にかけては信長軍の方に軍配があがったのである。すぐに全軍を動かして迎え撃つ体制ができなかった今川軍と、信長の命令ひとつで動く兵隊との違いが、勝敗を分けたと思う。
 今の世も金の力が物事を左右するとは言わないまでも、この信長の革新的な考え方には学ぶべき点が多いにある思うのだがどうだろうか。
【文:高田 金道】