戦国新報
 
 
平成7年 前期
もどる
右か左か迷う決断…
すすむ
 明智光秀は君主信長が『自分を憎んでいるのではないか』としばしば思うようになった。
 五十の歳を超え所領五十万石の領主である。足軽小者とは違うのである。だが信長は『キンカン頭め』とどなりつけ、徳川家康の接待係りも中途からはずされ、秀吉の応援に中国へ行けと厳命された。
 光秀は軍備も整え中国に進撃したが、Y字路にさしかかった時、右か左か進むべき道を迷いに迷った。おみくじを引いて凶がでた時、あわてて吉がでるまで引き直した。ようやく思いを決め『敵は本能寺にあり、次の上様は光秀公ぞ』と命令が下った。右が左か迷った末の決断だったが、光秀の教養が決心のじゃまになり『主人殺しになる』との心のためらいもあった。だから信長殺しの決断は単なる思いつきであったのではなかっただろうか。 このことを物語るように本能寺の変以来、光秀の親友や傘下の武将達は皆離れてしまった。
 冷静に物事を直視し、うまくいかなかった時は、次の策はどうすべきか、そのことを十分考え検討した上で、最後の決断を下すべきであるような気がする。三日天下の光秀の失敗は、情に激しての思いつき的な決断をしたことにあったのではないだろうか。
 しかし今の時代、迷いなく物事を決断するというのは戦国時代よりもむずかしいことだと思う。
【文:高田 金道】